講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

265冊目

講談社文庫『日はまた昇る』

作:アーネスト・ヘミングウェイ 訳:宮本陽吉

金丸徳雄
取締役 58歳 男

読むたびに新しい発見がある巨匠の傑作【ネタバレあり:閲覧注意】

書籍表紙

講談社文庫
『日はまた昇る』
作:アーネスト・ヘミングウェイ
訳:宮本陽吉
発行年月日:1972/08/15

「触っちゃいけない。触らないでよ」
「どうしたの?」
「がまんが出来ないの」
「ブレット」
「いけないわ、わかってほしいの。私はがまんが出来ないの。それだけのことよ。ねえ、わかってほしい」
「ぼくを愛していないのかい」
「愛するですって? あなたに触られると体じゅうがゼリーみたいになってしまうのよ」

 アーネスト・ヘミングウェイの初長編『日はまた昇る』は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる「戦間期」の代表作であり、F・スコット・フィッツジェラルドなどと共に語られる「ロスト・ジェネレーション」という通称を生み出した作品としても有名です。
 小説のはじめの方で交わされるこの色っぽい会話の「ぼく」=主人公ジェイクは、第一次世界大戦で負傷して性的に不能になってしまっています。その病院で知り合って愛し合うことになったのが、ヒロインのブレット。ボーイッシュなヘアスタイルをパリで流行らせた張本人でもあり、アシュレイ卿夫人という肩書きも持っています。愛し合いながらもつらい関係です。

 私がこの本を読んだのは中学生の頃。パリでの“酒とバラの日々”から始まり、スペインのバスク地方を旅行し、ブルゲーテ川での鱒釣り、パンプローナでの祝祭と闘牛、サン・セバスチャンでの海水浴、そして最後はマドリードへと続く、エキゾチックでロード・ムービー的な紀行小説として楽しみました。

 そして、高校生、大学生と何回か読み返すうちに、性的に不能な主人公ジェイクとヒロインのブレットの悲恋、それに嫉妬して絡む敵役コーンのいやらしさ、理解者としての作家ビルの友情、ブレットの婚約者にして破産者のマイクの饒舌と絶望、闘牛士ロメロの誇りなど、登場人物たちが抱える絶望や不安、それを打ち消そうとする意志と行動の意味が分かってくるようになり、より深くこの小説を愛するようになりました。

 訳者・宮本陽吉さんの解説にはより分かりやすくこう書かれています。

“日常生活のなかから確実な手応えのあるものを求めながら、自分たちの負わされた痛手を克服して生きる過程が強く心を打つ”

 会話の中から分かる時代設定は1925年の夏。1918年の第一次世界大戦終戦と1932〜33年のヒットラー台頭のほぼ中間という、まさに戦間期のど真ん中。ドル高で時代を謳歌した“パリのアメリカ人”たちの熱狂と、変わりゆく時代の空気が見事に捉えられているのもこの小説の特長です。しかし、何といっても最高の魅力は、『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーの先駆ともいえるファム・ファタール=魔性の女、ブレットの奔放さです。

 初めて英語で読み通した小説も、この『The Sun Also Rises』でした。各社から出ている様々な翻訳も手に入れていまも読み続けています。『日はまた昇る』こそは、読むたびに新しい発見がある、私にとってまさに「この1冊」なのです。

 さて、ここから先は、オマケの英文和訳の問題です。文章は小説の最後の会話部分(一部省略)です。あなたならどう訳しますか?

 “Oh, Jake,” Brett said, “we could have had such a damned good time together.”……
 “Yes,” I said. “Isn’t it pretty to think so?”

 このシーンの切なさを、どの翻訳でもいいから読み終えてぜひ感じてください。私が手に入れた本のリストもかねて、各訳者の翻訳もご紹介します。いちばん好きな訳は、もちろん講談社文庫の宮本陽吉訳です(笑)。

「ねえ、ジェイク」とブレットがいった。「私たちは二人でとてもうまく暮らせたかも知れないのにね」
「うん」とぼくはいった。「そう考えるだけでもいいじゃないか」
-宮本陽吉訳(講談社文庫)1972年

「ねえ、ジェイク」ブレットは言った。「あたしとあなたとだったら、とても楽しくやっていけるはずなのに」
「そうだな」ぼくは言った。「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」
-大久保康雄訳(新潮文庫)1955年

「ああ、ジェイク」ブレットが言う。「二人でいっしょにいることができたら、どんなに楽しかっただろう」
「うん」ぼくが言う。「そう思うと、わるかないやね」
-谷口睦雄訳(岩波文庫)1958年

「ね、ジェーク」ブレットはいった。「あたしたち、二人ですごく楽しくやれたはずだったのに」
「そうさ」ぼくはいった。「そう考えるだけでも、いいじゃないか」
-佐伯彰一訳(集英社文庫)1978年(2009年改訂新版)

「ああ、ジェイク」ブレットが言った。「二人で暮らしていたら、すごく楽しい人生が送れたかもしれないのに」
「ああ」ぼくは言った。「面白いじゃないか、そう想像するだけで」
-高見浩訳(角川春樹事務所)2000年単行本(のち新潮文庫2003年)

「ねえ、ジェイク」とブレットが言った。「二人ですごく楽しい人生が送れてたはずなのにね」
「そうだな」と私も言った。「思うだけで楽しいな」
-土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)2012年

(2015.11.15)

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