講談社100周年記念企画 この1冊!:週刊少年マガジン 1978年11月12日号

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

101冊目

週刊少年マガジン 1978年11月12日号

 

市原真樹
社長室 43歳 男

10歳の子供に大事なことを教えてくれた漫画

書籍表紙

週刊少年マガジン
1978年11月12日号
発行年月日:1978/11/12

 僕が10歳、小学校4年生のとき。漫画雑誌を親は買ってくれなかったから、もっぱら友達の家か歯医者(たまに耳鼻科)の待合室で読んでいた。

「マガジン」、「サンデー」、「ジャンプ」、「チャンピオン」らの少年誌と、たまーに「マーガレット」と「なかよし」。第2次ベビーブーム(懐かしい言葉だなあ)世代で東京下町の住宅街だったため、待合室は子供だらけ。もちろん歯医者は苦手だったし、毎回1時間は待たされていたが、そこは漫画雑誌をむさぼり読める、すばらしい環境でもあった。

 テレビアニメとはまったく違う『デビルマン』の単行本の内容にのけぞったのも、そこで。「小学○年生」掲載の『ドラえもん』はもちろん面白かったけど、マガジンの大人っぽさや、あやしさに惹きつけられ始めていた。(ヤングマガジンもモーニングもなかったころです)

 10歳のころは楽しかった記憶しかない。ただ個人的なことで恐縮だが、そのころは家族が欠け、さらに兄が長期入院生活に入り…と重苦しい時期だったはず。それでも、なぜかツラかった記憶はない。

 友達とする原っぱでの野球、学校でのドッジボール。午後5時に「からすの子」のメロディが街に流れても、まだまだ遊んでいた。「明日にも何か新しくて楽しいことがおきる」予感があったように思う。

「子供のポジティブさ」というものか。いや、そう感じた理由として思い当たる出会いがひとつある。

『一、二の三四郎』の第1話が掲載された「マガジン」との出会いだ。『おれは鉄平』や『翔んだカップル』らの間を縫って、やたらエネルギーに満ちた漫画が始まった。まったく見たことのなかった絵で、真面目な展開の直後にギャグが入る。とにかくセンスが新しい。すぐに雑誌中で最初に読む漫画になった。10歳の子供にも、いや子供だからこそか、特別な漫画であることはすぐにわかった。

 あのころ、『一、二の三四郎』と出会った。それまでもその後も、たくさんの漫画に出会ったが、「世の中に、こんなに面白いものがあるのか」とまで思えたし、漫画作品を「第1話から見守っていく」最初の経験だったように思う。『三四郎』とはウマが合ったのだろう。そして僕の胸の中にどっかと腰を下ろした偉大なる主人公・東三四郎からは、「人生、なんとかなるさ」というメッセージを勝手に受け取っていたように思う。これが大きかったのではないかと、今では思っている。

 そして実際、「なんとかなる」のだ。ありがたいことに。

 それから19年後(20代の終わりのころ)。僕は『一、二の三四郎』の作者の仕事場に入ろうとして、足が震えていた。当時の作品の担当役を引き継ぐことになったのだ。人に会う前に足が震えたのは、この時くらいだ。自分の人格のかなり大事な部分を形成させた作品の、作者に会うのだ。「もし万が一、読み間違えていたらどうしよう」「作者に否定されたらどうしよう」といった思いもほんの少しよぎる。最初の挨拶はあまりうまく言えなかったような気がする。

 さらに時間は飛んでそこから10数年後(今から数カ月前)。異動で漫画部署を離れることになり、小林まことさんに挨拶にうかがった。小林さんとは作品の担当から離れてからも、たくさん遊んでもらっていた。あらためて多くの的確な助言や少々の照れ臭い言葉をいただき、その中心にある言葉はくしくも、10歳の僕が勝手に受け取ったメッセージとほぼ同じだった。

 正解だったようだ、かつての幼き自分は。

やはり「なんとかなる」のです。
今も、そう思って日々を過ごしています。

(写真は、ちょうどそのころの年齢になった息子です)

(2011.11.15)

講談社の本はこちら

講談社BOOK倶楽部 野間清治と創業物語