272冊目
講談社文庫『将棋の子』
『将棋の子』は、将棋に挑み、敗れていった人間たちの姿を克明に描いたノンフィクション作品です。著者の大崎善生氏も、幼少期から将棋に魅了された人間のひとりで、大学時代は寝食を忘れて将棋にのめりこんでいたそうです。その後は、日本将棋連盟で勤務するうちに、プロ棋士を目指す奨励会員たちとも深い付き合いをするようになっていきます。
本書では、主に成田英二という男の人生に焦点が当てられています。著者は少年時代に北海道の将棋会館で成田と出会い、子供ながらに大人たちに打ち勝つ彼の姿を目にします。自分とは明らかに異質な人間に遭遇したこのとき、著者は「才能」というものの存在を強烈に意識しました。
高校に進学した成田は上京して奨励会に入会し、著者と東京の地で再会を果たします。その後、成田は順調に段位を上げていきますが、ある時期から全く段位が上がらなくなります。羽生善治を筆頭とした、新たな才能たちが頭角を現し始めたのです。奨励会では二十六歳までに四段にならなければ即退会。突発的なスランプではなく、実力で後輩たちに追い越され、家族にも不幸が続いた成田は、年齢制限を目前にプロへの道を諦めます。
“僕にはたしかに君の苦しさはわからないのかもしれない。では、君には僕の苦しさがわかるというのだろうか。僕が君に持ち続けている、君の才能への羨望や、奨励会で戦う君の立場への憧れを一度でも感じてくれたことがあったのだろうか”
負けが込み、途方に暮れる成田に対して、著者が抱いた思いは複雑でした。 才能にはレベルがあります。著者よりも、成田英二は才能を持っていた。そして、成田英二よりも優れた才能を持っている人もまた、奨励会には大勢いました。
悔しいのは成田だけではないのです。人には誰でも、自分より優れた才能と出合う瞬間があると思います。どれだけ頑張っても、あいつには勝てない。歳を重ねるごとに自分の“天井”が見えてきて、自分じゃない誰かに、自分の夢を託していく。そんな経験をしてきた多くの人間にとって(もちろん、私にとっても)、本書が描く、才能同士がぶつかりあう世界のきらめきと残酷さは、身に迫るものとして感じられるはずです。
成田が奨励会を退会して十数年が経った頃、借金を抱えどん底の生活を送る彼に、著者は意を決して会いに行きます。将棋は、成田からすべてを奪っただけなのか? 才能とは何なのか? 何かに全力を注ぐことの意味は? そんな問いに対する答えが、著者と成田のやり取りから見えてきます。
厳しい現実に打ちのめされながらも、一歩一歩人生を生きていく人間の強さを、ぜひ本書で感じてください。
(2016.06.15)