254冊目
『日本語の正しい表記と用語の辞典 第三版』
イヤなガキでした。
小学6年生の朝の会でのことです。ユーモアたっぷりの語りで学校中の人気だった担任の先生が、その日も、百円玉を題材に愉快な話をしてくれました。内容を覚えていないのが悔やまれます。クラスに爆笑が渦巻く中、私はやおら手を挙げ、言いました。
「先生は、百円玉の『100』と書いてあるほうを表とおっしゃいましたが、それは裏です」
教室は一瞬にして静まり返りました。あのときの先生のガスが抜けたような顔は忘れられません。なるべく先生に口答えするのはよそうと思った瞬間でもありました。
中学の数学の先生は、小麦色の肌がさわやかな色男でした。私はすっかり教師に従順ないい子に育っており、数学の成績は芳しくなかったものの、小麦肌の先生にもかわいがってもらっていました。その先生が、ある授業で「残りの時間は、平方根のさわりだけ触れておきます」と言ったのを、私の耳は聞き逃しませんでした。「さわり」は、本来は一番の聞きどころ、要点を指す言葉です。最初の部分のことではありません。
はたして、その授業で触れられたのは、平方根の導入部分のみ。どうにも我慢できなくなり、チャイムが鳴ってすぐ教卓に駆け寄り「さわりとは、要点のことです」と申し上げると、先生はにっこり笑い、しかし目を見開いたまま「そうですか」とおっしゃいました。その学期の数学の成績は4から3に下がりました。
間違いを指摘して、なぜ割を食わねばならないのか。考えるうち、こうなればどんな場合でもとことん誤りを正す人間になってやろうと、やけくそな気分となるに至ります。私は駅前の書店に急ぎました。正しい言葉が網羅されている本を買うためです。
そこで手にしたのが『日本語の正しい表記と用語の辞典』でした。この辞典の母体となっているのは、出版前の原稿をよりよいものにするための、講談社の社内用資料集だというではありませんか。こんな企業秘密のような本を携えていれば、人の言い損ないにびしばし物言いをつけられるに違いない。迷わずレジへ運び、意気揚々と帰路につきました。
帰宅して真っ先に開いたのが、「誤りやすい慣用語・慣用句」のページです。「誤りやすい」ということは、それだけ多く遭遇する間違いなのでしょう。まずはここに挙げられている言葉をすべて覚えようと、凡例に目を通すと……
『負けぎらい』が『負けずぎらい』に定着したり、現在では『あまっさえ』と言う人はなく『あまつさえ』と言われているように、言葉は生きていてたえず変化しています。今の時点ではほぼ間違い(あるいは好ましくない用法)と考えてよかろうと判断したもの〔中略〕を『適切でない用法』欄に掲げています。
ガガーン。なんと慎重な言いかた! この辞典は、誤用だ誤用だと、捕吏のように言葉をしょっぴくことを目的としたものでは決してなかったのです。むしろ、言葉は変化し続けるものだととらえ、日本語を使う際の参考程度になればよいという、たいへんに遠慮深い性格を備えていました。そうか、ある言葉を誤りだと指摘する行為は、言葉の変化という性質を無視した、主観的で傲慢なものになりかねないのだ――。
当時、第二版だった本書は、2013年に改訂されて第三版となり、「誤りやすい慣用語・慣用句」もアップグレードされて「誤りやすい言葉・慣用語・慣用句」となりました。その他、さまざまな増補がなされ、使い勝手が増しています。 私もすっかり改心し、今では、耳になじみの薄い言葉を耳にすると、言葉の変化をつかまえた気になって、たいへんうれしい心地がするようになりました。
「君は今、『三階』を『サンカイ』と発音したね! ちょっと前までは『サンガイ』が普通だったんだが、『サンカイ』も多数派になりつつあるよね~」
「『所在なさげ』だって? これは一昔前なら『所在なげ』が正しいんだと言われたところだけど、活字になっているのも見たし、そのうち辞書にも載りそうだよ~」
違うタイプのイヤなヤツになっていなければいいのですが。
(2015.06.01)