講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

249冊目

『織田信長』(上)(中)(下)

著者:山岡荘八

西嶋誠
海外キャラクター出版部 50代 男

四つ子の魂……?

書籍表紙

『織田信長』(上)(中)(下)
著者:山岡荘八
発行年月日:1961/10/25

 4歳の夏だった、と思う。水商売の女と金目の物を持ち逃げした叔父を、母が見つけ出し、住処に乗り込んだ日のことだ。愛の巣と言うにはあまりに侘しい、西陽しか射さない何にも無い擦り切れた畳の小さなアパートだった。相手の女性は勤めに出たのか、もう清算されていたのか不在だった。母(叔父からすると実の姉)から、くどくど説教をされていた叔父は、話題をそらそうとしたのか、照れ隠しなのか、「誠、おまえ誕生日迎えていたな。(私は7月生まれ)プレゼントだ!」と言って、1冊いや一塊の本を差し出した。それが、「講談社刊 山岡荘八著 織田信長 全3巻」だった。

 四六判くらいで化粧ケース入りの、上・中・下の3巻。ケースには、暗い朱と灰色を基調として、表1側は“炎の中、仁王立ちの不動明王”のイメージなのであろうか、血まみれの武将が兜の下から、目だけをぎらぎらさせて正面に向いて大刀を構えている姿が描かれていた(ように見えた)。どなたの装画か記憶は無い(残念なことだ)が、装幀は水野石文氏の手によるものだったと思う。奥付には著者「山荘」の検印が点かれていた。とにかく怖かった! 横でヒステリックに実弟を叱っている母の口調より、幼児の私にとって、プレゼントされた本のほうがよっぽど怖かった。記憶があるほどなのだから。

 もちろん4歳の私が読めるはずも無い。その「織田信長 全3巻」は、蔵書なんかほとんどまったく無い我が家の本棚の一角に鎮座することになった。型紙の付いた洋裁の本、小鳥や金魚の買い方、川上宗薫先生の小説などに囲まれ異彩を放つさまは、まさに“本棚の天魔王”のような存在だった。たまに怖いもの見たさに、本棚から取り出してケースだけを見ることはあったが、幼時の自分には近寄りがたい禁書!であった。悪い事をすると、カバーの武将に連れ去られる!?なんて思いながら過ごした。その後、我が家は数度も転居することになるのだが、紛失することも処分されることもなかった。さすがは“天魔王”である。

 実際に読んだのは中学3年生のとき。とても熱中して読んだ。けっこうな長編のはずだが、1〜2週間で一気に読了した。学校の休み時間に読み耽っているときに、割と暴力的な親友が「あ〜そぼ!」と首を絞めてきたのを、読み続けたいが故に「うるせ〜な!」の一言で、胸座をつかんで放り投げた記憶だけがある。それだけ夢中になるほど面白かった、ということだ。しかし、内容はなんにも覚えていない!

 読み終わって以来、“本棚の天魔王”は自分により近い存在になったように勝手に感じて、“本棚の守護神”へと変わった。高校・大学と進学するにつれ、自分自身の蔵書も増え、もっと立派な造本や装幀の書物もあったが、やはり本棚の守護神は「講談社刊 山岡荘八 織田信長 全3巻」に変わりは無かった。大学4年、講談社に入社内定をいただいた際には、叔父と「信長」には真っ先に報告させていただいたことは言うまでもない。それに数ある出版社の中で、講談社に勤めたい、と考えるようになったのも「信長」の縁に違いない。

 今、こうして入社30年を越えてなんとか勤めてこれたのも、叔父にもらった「織田信   長 全3巻」のおかげなのだろう、と思う。だから、なんといっても私にとっての「この1冊は「山岡荘八 織田信長」なのである。定年前になんとしても、もう一度読まねばならぬ。今は文庫版しかないが、それはそれでしょうがないし、新しい発見があるかもしれない。

 叔父には本当にいろんなことを教わった。書物・学問・スポーツだけでなく、酒・競馬といった様々な遊びごとも。海外勤務でほとんど不在だった父親代わりでもあり、ろくでもないことを教えてくれる親戚の一人でもあり。大酒飲みで、角刈りでにらむ目つきは怖く、すぐに手が出る男だったが、読書家で、博識で、マメで、よく歩いた。私の人格形成に非常に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。15年ほど前に亡くなったが、棺には感謝とあの世でも護ってもらえるよう想いをこめて「私のこの1冊」を入れさせていただいた。装幀も汚れ、剥げ、ケースも一部紛失、本文も背から取れかけていたが。

 そういえば、物心ついて初めての出会いがそんなであったから、叔父からは女は教わっていなかった。私がまだ独身なのはそのせいか。

(2015.02.01)

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