248冊目
講談社学術文庫『大いなる小屋 江戸歌舞伎の祝祭空間』
歌舞伎を観るたびにどこかしっくりこない感じをずっと抱いてきました。「女殺油地獄」「義経千本桜」「助六」「東海道四谷怪談」など魅力的な作品ですら、何かが違うのです。その答えを教えてくれたのがこの一冊です。
新開場前に中村富十郎、中村芝翫、市川団十郎、中村勘三郎など名優、重鎮が次々と亡くなり、旧歌舞伎座のたたりではないかと巷では囁かれている梨園ですが、新旧歌舞伎座で変わっていないところがあります。それは舞台の間口が十五間(約27m)ということです。環八に面している異様なビルM2(現東京メモリードホール)などのポストモダン建築でも知られ、新歌舞伎座を設計した建築家の隈研吾も舞台の大きさは変えないと言っていました。それだけ、歌舞伎座の舞台の大きさは変えてはならないものだと思われているのかもしれません。
ところで、江戸時代の舞台の間口はどのくらいだったのでしょうか? 著者が復元作業に携わった江戸東京博物館に展示されている文化二年(1805)頃の中村座では、小屋自体の間口ですら、十一間(約20m)でした。時代が下がった天保七年(1835)に建築、四国こんぴら歌舞伎大芝居で有名な金丸座の小屋の間口は約13間(約23m)です。花道を除いた舞台の間口である本間は、六間(10.9m)ですから、今の三分の一。当たり前と言えば当たり前で、舞台の大きさは時代によって変わってきているのです。
明治維新以降はどうでしょう。西洋に追い付け追い越せと歌舞伎も立派な舞台を求めていきます。明治22年に初代歌舞伎座ができたときが十二間、大正元年の本郷座が十三間、そして歌舞伎座の十五間となります。
ところが、歌舞伎座が十五間に広がったとき、間口の狭いニ長町(今の人形町)の市村座(十一間半)から久しぶりに出た六代目尾上菊五郎が、「こんなに広いところでは立派な大道具を飾って、役者はじっとしていた方がよい」と、また、十三代目片岡仁左衛門も「寸法に合う劇場が今はない。(中略)こっちのいいように歩いて行こうってそこへ行こうと思ったら、今度は三味線が合わせて手数を変えないといけない。これでは、歌舞伎の間がすでにこわれてしまっている」と言っていたと著者は書いています。
役者が肉体で表現するには、歌舞伎座の間口は大きすぎるということです。役者と舞台の関係が微妙にずれていると言うことでしょうか。大首絵で有名な東洲斎写楽、同じく歌川豊国など役者絵を得意とした浮世絵師の作品からは江戸歌舞伎の熱、役者の息遣いが伝わってきます。もちろん一枚の絵の中の芝居の面白さを詰め込んでいるからでしょう。しかし、三枚の組み物でも迫力があるのは、やはり舞台は役者が主役だからです。
歌舞伎座と役者とのこのギャップをどう工夫しているのか。現代の役者がチャレンジしているのが、歌舞伎座を使わず昔の舞台で行う、こんぴら歌舞伎であり、中村勘三郎の始めた平成中村座などの空間の復活です。または、広いのなら居直って(?)大仕掛けのスペクタクルにした三代目市川猿之助(現二代目猿翁)のスーパー歌舞伎なのかもしれません。
こんなことを気付かせ、考えさせた1冊が「大いなる小屋」なのです。櫓がなぜ上げられているか? 上手下手の関係とは? などなど、ここでは触れませんでしたが、連綿と続いてきた伝統、約束事の由来や、今は使われなくなったものなど多くのことが書かれています。
安くておいしかった3階のオリエンタルカレーが無くなり、チケットをはじめいろんなものが高くなった歌舞伎座で、幕の内弁当をたべなくても、その一つ一つを話題にすれば、幕間は持ちますよ。(敬称略)
(2015.01.15)