講談社100周年記念企画 この1冊!:講談社文庫『我、拗ね者として生涯を閉ず』(上)(下)

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

190冊目

講談社文庫『我、拗ね者として生涯を閉ず』(上)(下)

本田靖春

渡瀬昌彦
役員 50代 男

余命いくばくもない、と思い定めて

書籍表紙

講談社文庫
『我、拗ね者として生涯を閉ず』(上)(下)
著者:本田靖春
発行年月日:2007/11/15

「このイチ!」欄の管理者というか実質編集長である講談社広報室のY・K君は、なかなかの仕切り屋というか、独裁者というか……。

Y「このイチ! 渡瀬さんにも書いてもらいたいんですが」
W「前広報室長(私、2011年2月まで広報室長を務めていました)としては断るわけにはいかんの……」
Y「当ったり前ですよ。で、お題は「拗ね者」ですよね、当然。締め切りはX月X日ですから」
W「……」

 原稿執筆の諾否の意思を伝える以前に、どの本を取り上げるかまで決められてしまった。いやはや理不尽極まりない。

 とはいえ、『我、拗ね者として生涯を閉ず』が、編集者としての私にとって、もっとも思い入れの強い作品であることは紛れもない事実で、Y君の「執筆指令」には感謝しこそすれ、文句を言う筋合いではまったくないのだが。

 孤高のジャーナリストともいわれる本田靖春さんの担当になったのは、私が27歳のとき。週刊現代誌上で展開された「本田靖春の『委細面談』」という連載対談シリーズのスタート時からだった(この対談は本田さんの死後『戦後の巨星 24の物語』として講談社から刊行された)。当時(1984年)、本田さんは51歳。読売新聞社会部エース記者として名を馳せ、38歳でフリーとして独立したのち『不当逮捕』『誘拐』『私戦』『疵』などのノンフィクションの名作を生んだジャーナリストは、文字通り「斗酒なお辞さず」(ただし洋酒に限る)で、仕事でも酒席でもきわめてエネルギッシュ(いやあ、何度もしくじってはそのたびに怒られていました)で、魅力に溢れた人だった。本田さんの一挙手一投足を見ていたくて、金魚の糞のようにくっついて歩いていた時期もあった。

 しかし時は流れ、私が「月刊現代」編集人を務めていた2000年頃には、本田さんは既に右眼を失明し、さらに肝臓の具合もきわめて深刻になっていた。

 1964年、ようやく30代になったばかりの若手記者として、本田さんは読売新聞紙面で「『黄色い血』追放=100%献血を目指すキャンペーン」を展開する。その結果、広く蔓延していた非人間的な「売血」制度を現在のような「献血」に転換させるという歴史的な偉業を成就するのだが、その取材過程でC型肝炎に感染する。山谷のドヤ街に長期間住み込んだ本田さんは、自ら売血を行った上で、その実態を紙面で告発したが、その代償として注射針の使いまわしによってC型肝炎に罹り、さらに肝炎から肝硬変に。そして2000年頃には肝ガンへと進行していた。

「余命いくばくもない」と思い定めた本田さんから「最期の作品として自伝的なノンフィクションを連載したいんだが、どうだろうか」と打診されたのがその頃のことだった。それが『我、拗ね者として生涯を閉ず』。

「これを書き終えるまでは死なない、死ねない」といい続けた本田さんだったが、心血を注いだ連載は最終回を残して絶筆となってしまった。しかし、書き残すべきことは、ある一事(いちじ)を除いてほぼすべて書き記したのではないか、と私は思っている。

 その「ある一事」が何なのかも含めて、拙文に多少でも興味を抱いていただいた方は、ぜひ「拗ね者」をお読みいただけたら幸いである。

 本田さんの死後に出版されたこの本を読んで、新聞記者や雑誌ジャーナリストになることを決めた、という若者に何人も出会った。

 そんな作品に伴走できたことを、心の底からありがたく思っている。

追伸 本田靖春氏の作品の中には、現在絶版になっているものも多々ありますが、それらも含め本田作品全28作を所収した「電子版 本田靖春 全著作集(仮題)」が2013年春、講談社から発売される予定です。

(2013.02.01)

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