講談社100周年記念企画 この1冊!:講談社文庫『復讐するは我にあり』(上)(下)

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

188冊目

講談社文庫『復讐するは我にあり』(上)(下)

佐木隆三

山岸浩史
ブルーバックス出版部 49歳 男

映像の恐怖 文字の恐怖

書籍表紙

講談社文庫
『復讐するは我にあり』(上)(下)
著者:佐木隆三
発行年月日:1978/12/15

 最初に出会ったのは映画のほうだった。大学1年の正月、テレビの深夜番組をだらだらハシゴしていてたまたま観はじめ、そのまま固まってしまった。

 無辜の男女5人を殺害して78日間も日本全国を逃げ回った末に、1964年1月3日逮捕、死刑に処せられた西口彰(逮捕当時37歳)がモデル。1975年に書き下ろされ、直木賞を受賞した小説を、1978年に今村昌平監督が映画化し、主人公「榎津巌」(えのきづ・いわお)を緒方拳が演じた。

 専売公社職員の頭をハンマーでめった打ちして撲殺、トラック運転手の顔面を出刃包丁でずたずたにして失血死させるという粗暴きわまりない犯行後、福岡県から全国逃亡の旅に出た榎津は、一転、大学教授や弁護士になりすまし、弁舌さわやかに巧妙な詐欺を繰り返す。かと思えば、そこに唐突に織り込まれる殺人。「強力犯」と「知能犯」が1人のなかで同居し、北海道から九州まで、いつ、どこに現れるか予測できない前例なき犯罪に、警察は翻弄されつづけた。「広域重要指定事件」の制度ができたのもこの事件がきっかけだったという。

 なにより不可解なのが、榎津の「目的」だった。忙しく立ち回って得たカネ(それもたいした額ではない)は「女」と「競艇」に消費され、使い果たすと次の犯罪に着手する。「その日の寝場所」を確保するために殺すことさえある。カミュの「異邦人」を地で行くような、カラカラに乾いた虚無。

 映画でそれを表現しきった緒方拳の演技は、奇跡のように思えた。裁判所で偶然知りあった老弁護士(加藤嘉)に不動産のことで困っている、と近づき、「どうです、ご相談がてら、すき焼きでも」。次の場面、榎津は商店街で豪勢に肉を買い込み、ついでに金槌と釘30本を買って口笛まじりで老弁護士が独居する木造アパート(実際の現場がロケに使われた)に戻る。すき焼きパーティのあとの惨劇が予想され、手に汗がにじむ。しかし、部屋には老弁護士の姿がない。と、榎津の背後でキーッと開く洋服ダンスの扉。その中には、目を見開いたまますでに絶命している老弁護士が……。榎津、表情も変えずに扉を足で閉め、さっき買った釘をタンスに打ちつけていく。トントンと、日曜大工でもしているように軽快に響く金槌の音──。

 このシーンのせいで、それから1週間ほど眠れなかった。どんなホラー映画よりも怖かった。いまだに、これほど怖い映像をほかに観たことがない。

 かぶれやすいお調子者は、すっかり榎津にハマってしまった。友人と談笑しながら、こいつを殺すにはどうすればいいかと考えてみたり、警官を見ると自分が逮捕されるところを思い描いたり、「もうどうでんよか」と九州弁でつぶやいてみたり。そして当然、原作にも手を伸ばすのだが……。

 読みはじめたとき、おおいに当惑した。それは、いわゆる「小説」ではなかった。捜査記録にもとづき、関係者の証言や客観資料のみを時系列に沿って並べていく形式になっていて、作者の推測は一切、介在していなかった。したがって映画のような凄惨な殺戮シーンもなく、暴走の遠因を父親や信仰(カトリック)との葛藤に求めるような洞察もない。そもそも榎津本人が、逮捕されるまでは証言の中でしか登場しない。いわば「主人公不在」なのだ。

 こんな小説、ありえんたい! そう思ったのは、しかし束の間だった。

 登場する証言者はおおむね、平凡な暮らしのなかでたまたま、榎津の犯罪と関わりをもってしまった市井の人たちである。「怪物」の姿は、彼らの言葉の端々に一瞬、ギラッ、ギラッと断片的に垣間見えるにすぎない。

 なのに、それらがときに、たまらなく怖いのである。たとえば殺された老弁護士が住んでいたアパートの、53歳の女性管理人の証言。

「だって二十日からこっち、恭平先生まるで姿を見せないんだものね。そのくせ人の出入りはあいかわらずで、部屋を覗いてみたら留守番までいるじゃないの。ひとことの断わりもなしに留守番なんか置いてさ……」

 言うまでもない。彼女が覗き見たのは、老弁護士を殺害したあとも、タンスの中の死体とともに数日間、その部屋に滞在を続けた榎津巌だったのだ。

 このせいでまた、1週間ほど眠れなくなった。いきなりぶん殴られたような映像のそれとは違い、体の中からじわじわと、とめどなく浸み出してくるような恐さ。文字によってこんな恐怖をおぼえたのも、この一度だけである。

 そして「不在」のはずの榎津は、その周囲をびっしりと点描されることによって、いつのまにか真っ黒な影となって頭の中に棲みついていた。これこそが作者の狙いだったのだと気づいた。おいでおいでをするその影からなんとか逃れることが、自堕落な大学生活を送る自分にとっての難事になってしまった。文字の魔力、おそるべし。

 なお、本作は現在、文春文庫から、固有名詞を実名に変えて大幅に加筆修正された「改訂新版」が出ている。それにしても、左上の写真……。逮捕直後のものなのに、なぜ笑っているのだろう。

(2013.1.15)

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