講談社100周年記念企画 この1冊!:『白道』

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

180冊目

『白道』

瀬戸内寂聴

麻生典江
厚生部 52歳 女

人間西行との出会いと思い出

書籍表紙

『白道』
著者:瀬戸内寂聴
発行年月日:1995/09/26

 装画・題字 榊莫山という豪華本「白道(びゃくどう)」が出たのが平成7年9月でした。この瀬戸内寂聴著の西行をテーマにした本は装丁も素晴らしく、当時2,000円という値段も納得できる豪華版です。

 この本を再び手にするきっかけになったのは、2008年3月に游墨会の角田恵理子先生が出光美術館の「西行の仮名」の展覧に誘ってくださったことでした。出光美術館の学術会員、笠原忠幸先生の解説を聞いた後に展示品をじっくりと見る機会を得、「西行」についてもっとたくさんの事を知らなくてはと思い、13年間本棚の奥にしまってあった「白道」を思い出したのです。

 伝西行の書はたくさんあるのですが、西行の直筆とはっきり分かっている唯一の一行詩も笠原先生の解説を聞いてから見たので、感動を覚えたのを思い出します。

「西行」というと誰でも知っているのは、歌人としての「西行」で、『ねがわくは花のしたにてしなん そのきさらぎのもちづきのころ』は、「山家集」の中の一句として有名です。出家前は、北面の武士佐藤義清(のりきよ)という名前で、文武に優れた上に容姿端麗で鳥羽上皇に寵愛されていたにも関わらず、突如23歳で妻子を捨て出家します。その後、西行と号し全国各地を雲水を友として悠々自適の生活を送り、和歌を吟じて藤原俊成、藤原定家、九条良経、僧慈園と親交があったといわれています。この出家するときに、可愛い盛りの娘を縁の外に蹴落としたことは有名であり、鎌倉時代と江戸時代に書かれた「西行物語絵巻」のこの場面は、一度は目にしたことがあると思います。

 この物語は、著者の瀬戸内先生が、西行が永遠の女性として胸に秘めつづけた待賢門院璋子の墓のある「五位山 山号法金剛院」を尋ねて行くところから始まります。待賢門院璋子は鳥羽上皇の中宮で、崇徳天皇と後鳥羽天皇の生母であり、45歳で崩御しています。

 西行がなぜ突然とも思える出家の道を選んだのか、瀬戸内先生が自分の出家以来ずっと自分に向かって問い続けてきた質問に辟易しながらも、この大先達にその答えのヒントを授かりたいという気持ちが潜んでいたのかもしれないと言っています。

「白道」の豪華版はもう販売されていませんが、文庫版で出ています。「人間西行」を知ることができる本ですので、是非お勧めします。

 たまたま今年の、NHK大河ドラマの「平清盛」はこの時代の話しなので、白河法皇、鳥羽上皇、崇徳天皇、後鳥羽天皇の人間関係がとてもよくわかります。

 この出版に当たっての記念パーティーが当時本館の「4階5号会議室」で、瀬戸内先生をお迎えして行われました。瀬戸内先生の好きな日本酒を、男山酒造が「白道」いう名前で日本橋三越での限定発売をしました。講談社でもその一部を4階5号会議室で販売し、私は3本買ったのを覚えています……。全部私が飲んだ訳ではありませんが、美味しかったです。当時の担当編集者は芳賀明夫さんで、彼も無類の酒好きと聞いています。酒好きな社員が酒好きの先生を囲み、とても和やかな雰囲気で、瀬戸内先生を身近に感じることができた貴重な体験でした。帰り際に瀬戸内先生と握手をしたのですが、とても小さくて柔らかい手でした。瀬戸内先生の放つオーラからは想像もつかなく、先生のその小さくて柔らかい手を思いっきりギュっと握ってしまいました。痛かったでしょう、ごめんなさい。

(2012.10.15)

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