157冊目
『たけし!』
『たけし! オレの毒ガス半生記』
著者:ビートたけし
発行年月日:1981/11/18
17歳のころ。
役者になろうか、それとも学校にでも行ってみるか――がらんがらんの後楽園球場でコーラを売りながら、日本ハムのゲームを眺めていました。
ナイターが終わると、夜は、有楽町のニッポン放送の前にいたりしました。私が、日本ハムと同じぐらいイレこんでいた、お笑い芸人のビートたけしがラジオ番組のパーソナリティをやっていたからです。ちなみに、昭和56年秋に講談社から出たたけしの自著『たけし!』は、表紙がぼろぼろになるまで読みました。いま読み返せばなんということはない、いわゆるネタ本でしたが、やさぐれていたころの私には、強烈なインパクトがありました。
あわよくば、たけしに会えるかもしれないと、ラジオ局の玄関に足を運んでいたのは私だけではありません。このころ、目をキラキラ輝かせて局の玄関で「出待ち」をしていた女性に私が注意を払うことはありませんでした――。
心酔していたたけしが、私の新人としての配属先である編集部に徒党を組んで殴り込んできたのは、入社した年、昭和61(1986)年12月9日深夜のことです。フライデーの「愛人取材」に激昂しての犯行と報じられました。
この夜、いつもより早く、午前1時すぎに編集部をあとにした私は、「襲撃」の時間、遊びほうけていました。ポケットにボーナスを突っ込んで。
朝、会社に着くと、現場検証を進める大勢の警察官。自分の机の上には血痕がべっとりと。それは靴底を象っていました。
「しゃれになんねぇなー」
そうつぶやきながら、記者会見のセッティングに奔走した記憶があります。
この事件では、編集部が広く世間から指弾を受けたのはもちろん、講談社のあらゆる部署から批判、非難の嵐が巻き起こりました。この「たけし事件」以降、取材先では、実際に名刺を破り捨てられたこともありました。世間や会社と一線を画す私たちは、「有名人とプライバシー」について、独自の理論武装を強めていくことになります。
もちろん、当時、そんな空気のなかで、
「僕はじつは、たけしのファンなんです」
などというひと言を、部内で発することはできませんでした。
「後楽園球場」のころから30年あまり。
ニッポン放送玄関でたけしの「出待ち」をしていた女性は、襲撃事件の後、愛人の座を磐石のものとし、彼の娘を生み、育てあげました。私の手元には日に灼けた『たけし!』が残っているだけです。
(写真:1981年秋に講談社から刊行された「たけし!」は他の版元から数多く出た「たけし本」を圧倒的に凌駕する面白さでした)
(2012.07.01)