128冊目
吉川英治歴史時代文庫『剣難女難』
吉川英治歴史時代文庫
『剣難女難』
著者:吉川英治
発行年月日:1990/09/11
「ページターナー」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ページを次々とめくらずにはいられないくらい面白い本のことであるらしい。私にとっては大学1年生の夏休みに知人の山荘で出会った『宮本武蔵』がまさにそれであった。昼食をインスタントラーメンで済ませ、ふと手に取ってから、翌日の夕方まで一心不乱にページをめくった。だけでなく、翌日山を降りて渋谷にある大学サークルの溜まり場に着いてからも、OB、先輩、同級生誰彼かまわず「武蔵を読んだか。武蔵はすごい」と繰り返し、不審がられた記憶がある。
『宮本武蔵』については語りつくされている感もあるので、ここでは吉川英治としてのデビュー作『剣難女難』の魅力について述べてみたい。伝奇小説の代表格ともいわれ、吉川英治(本名:英次=ひでつぐ)名で初めて描かれた記念碑的小説となったが、講談社が日本一を目指して売り出した雑誌キング創刊号の目玉でもあった。未曾有の被害を出した関東大震災から、わずか1年数ヵ月後の発売で、被災日本の多くの読者を楽しませ鼓舞した作品でもある。
文庫本(吉川英治歴史時代文庫)でももちろん入手できるが、今回の再読にあたり、e-readerサイトで購入してみた。家捜しすれば出てくる紙の本を改めて購入するのは癪に障るし、電子書籍はなんといっても検索ができるのがいい。
舞台は江戸時代が始まって半世紀ほど過ぎたころの丹波地方。隣藩同士のいがみ合いが、競(くら)べ馬から剣術試合に発展、その遺恨に主人公・春日新九郎が巻き込まれる。といっても新九郎、剣の腕が立つわけではない。「光綾の振袖に金糸の繍も好ましい前髪立の若衆」で竹刀の音を聞くだけでも怖気を奮うような惰弱者。ここに美女、悪女、謎の達人に極悪キャラがからまりながら舞台を江戸に移す。兄の敵(かたき)討ちが課せられた新九郎には、隠された才能が発揮されてくる。畳み掛けるようなさまざまな苦難が主人公を襲うが、それらをことごとく克服して、いっぱしの武芸者に成長して敵討ちにも成功するという大団円。最後の一説は次のように綴られている。
「白い綸子に顔をつつんで、水晶の年珠を持った愛欲の墓。かくて、その人々の過ぎた人生の街道、剣難の辻女難の追分へ、次にはどんな若い武士がさしかかるのであろうか。」
伝奇小説、つまりSF・ファンタジーであると同時に、「成せば成る」精神を背骨にしたドイツでいうビルドゥングスロマン(教養・成長小説)でもある。
吉川英治が亡くなって今年で50年。生まれが明治25(1892)年だから生誕120年でもあるのだが、吉川英治歴史時代文庫はいまだに版を重ねているばかりではなく、電子書籍としても講談社の売り上げベストテンに顔を出すなど、作品として十分に命脈を保っている。その秘密はどこにあるのか。「ページターナー」的な小説構成の巧さもさることながら、作品の主人公たちが難関や逆境に臨んでも決して挫けないその心構えに、読み手のどこかが共鳴するからではないだろうか。
ちなみに、3月4日(2012年)まで目白台の講談社野間記念館で、直筆原稿から原作映画のポスター、バガボンド作者の井上雄彦氏による色紙なども展示された「読み継がれる吉川英治文学展」が開催されている。
(2012.02.15)