118冊目
『詩は友人を数える方法』
『詩は友人を数える方法』
著者:長田弘
発行年月日:1993/11/15
わたくしは校閲という仕事をしています。出版前の印刷物の誤りをただす仕事です。
これまでに何百冊も校閲をしてきましたが、仕事が終わるや、ほとんどの本のことは頭から離れていってしまいます。そうでないと、この仕事は続けられないのです。しかしいまも折にふれて取り出す本もないではありません。
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いつも順を追って読まないので、ちゃんと説明できないかもしれません。
そもそもこの本じたい順を追っていません。アメリカを車で旅した印象記ということですが、章ごとのテーマに沿って再構成しているからです。
その旅も一回きりのものではなく、いくつもの旅の記憶が描かれているようです。湾岸戦争の始まった年(1991年)の夏というくだりがあり、連載時期から(「群像」1992年〜93年)このあたりを最下限と見なせそうです。
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読むと、旅人じしんを示す一人称が、めったに出てこないことに気づきます。一人称が遠く退くかわりにせり出してくるのは、アメリカの原風景そのもの。
〈アビリーンの町を北へ一歩でると、すべてが、一どに剥きだしになった。地面は荒れたままで、がさがさの地肌のうえは、どこまでも灰色の砂と石ころ。砂と石ころのあいだには、子どもの背丈ほどの、枝のある草のような、細くちいさなメスキートの木が散らばっている。砂と石ころとメスキートの木のうえは、ただ空だ〉
印象記と印象記の合間を、20世紀アメリカ詩人の詩がつないでいます(訳は著者による)。
〈ねがわくは、あなたたちが心をいっぱいに開くことを。
空に。大地に。太陽に。月に。
一つの完全な声に。それがあなたたちなのだから。
そうすれば、わかるはずだ。見ることの
できないもの、聴くことのできないもの、知ることの
できないものが、まだまだあるのだということが。
ジョイ・ハージョ「鷲の詩」〉
一様ではないのですが、詩と印象記のつながりかたは、ある旅の記憶がひとつの詩をなかだちに、別の旅の記憶に変わるといったふうでしょうか。
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こんな話が出てきます。少年に父がいう。夢を見るには、目をきれいにしなければならない。父はいつも山を見ていた。
〈山を見ていると、目がきれいになる。いい夢を見ることができる。これは信じていいことだ〉
この本を読むと、目がきれいになる。これは信じていいことだ。
(2012.01.13)