講談社100周年記念企画 この1冊!:「FRaU 1991年10月8日号」

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

117冊目

「FRaU 1991年10月8日号」

横川裕史
第二編集局 50代 男

アタマのキレイなひと。フラウ。

書籍表紙

「FRaU
1991年10月8日号」

 1991年9月24日、新しい女性像を世の中に投げかけた。

 FRaUの創刊プロジェクトが秘かに始まったのは、2年前の1989年秋。リーダーは当時ViViの編集長だった伊原道紀氏。「講談社のnonnoをつくる」と言って始めたViViを、突然「講談社のJJにする」と方向転換した人だ。新入社員で配属された地方出身の私には女子大生に縁もなく、とにかく読者に会おうと、さまざまなルートで女子大生の自宅の電話番号(携帯なんてない時代)を集めまくった。中には、後に女子アナとしてアイドル化していった子もいる。

 6年間、女子大生たちに会っていると、卒業後の彼女たちに中に、肩ひじ張ったキャリアウーマンでもなく、結婚までの足かけOLでもない、高学歴で、でもファッションやメイクが好きで、仕事はちゃんとやる女性たちが現れていることを肌で感じていた。

 雑誌づくりは火付け盗賊みたいなところがあって、街のどこかで新しいガスが充満しているところに気づいて火をつけて爆発させるのが仕事だ。その後はテレビが、いまならソーシャルメディアが風を送り込むことで大火事=ブームになっていく。

 彼女たちに、「ワンテイストマガジン」で切り込むことができるのではないか。その仮説がFRaUの出発点だ。

 90年6月に正式に「新雑誌企画部」が発足。10月になんとかダミー版を1冊つくってみたものの、役員会での評判は散々。青山の焼肉屋で、部が解散ということになったら、次にはどこに行こうかと真剣に話し合った夜もあった。

 新しいコンセプトを形にするには、表現も新しくするしかない。才能を発掘し、そこに賭けることこそ、編集者の醍醐味。当時はPR誌を中心に斬新なデザインを行っていた岡本一宣氏をアートディレクターに起用。今や物撮影の大家、戸田一嘉氏におこがましくも化粧品の撮り方をレクチャーしたこともあった。

 途中、月刊誌にしてリニューアルということもあったが、何とかFRaUは20歳になった。少子高齢化、デジタル化、グローバル化、大きな荒波をどう乗り切っていくか。現場に出かけ、明日の読者の気持ちを想像し、新しい価値を提案することでしか、雑誌の生き残る道はないだろう。

(2012.01.13)

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