講談社100周年記念企画 この1冊!:復刻版のらくろ漫画全集1『のらくろ上等兵』

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

102冊目

復刻版のらくろ漫画全集 1『のらくろ上等兵』

田河水泡

岡本京子
文芸図書第一出版部 36歳 女

よじのぼってでも手に触れたいと思った「この一冊」

書籍表紙

復刻版のらくろ漫画全集 1
『のらくろ上等兵』
著者:田河水泡
発行年月日:1969/09/25

 母方の祖父母の家は、いまから思えば典型的な昭和の平屋建てで、たったひと間だけ洋間があった。客が座ることもない長いソファにはテカテカに光ったキルティングカバーがかけられ、壁面には無愛想な灰色のスチール棚にぎっしりと祖父の仕事関連の書籍とファイルが詰め込まれていて、みなが集うのは隣りのこたつ部屋という、絵に描いたように「洋」の空間を持て余していた典型的な昭和の家族だった。

 大人の話に首を突っ込むとろくなことはないから、私はたびたびこの部屋に逃げ込んだ。小学校の低学年の頃か。祖父が存命だったのだから、たしかそれくらいだろう。実は、この洋間の一角に、そこだけがヨーロピアンの薫りを漂わせる、重厚なガラス扉の木製キャビネットがあった。当時の私の頭ぐらいの高さの板を前面に引き出すと文机になった。幼心に、これはちょっと高そうだ、いたずらするとコトになると思わせるほど堂々たるものだったが、私はそのキャビネットの上のほう、ガラス扉の奥に並んでいる『のらくろ○○』と書かれた本の、楽しげな背表紙の列に興味津々だった。

 ある日、作戦は決行された。

 キャビネットの下に組み込まれている椅子を踏み台にして、さらに引き出した机に足をかけ(!)、上面のガラス扉を開けると、ぐいっと一冊を取り出して、さらに一冊を取り出して、を繰り返したのである。やっと目当ての本を手にしたときの高揚感といったら! いまも指先には、紙の函から本を出したときの、布地の表紙に驚いた感触が残っている。これから読むのかなとあたりをつけて読みはじめた『のらくろ上等兵』。旧字・旧かな遣いも苦にならないほど夢中になった。ブルドック大佐率いる猛犬聯隊に入隊したのらくろは、どじで間抜けでそそっかしいけれど、いつも明るい心持ちで、元気に尻尾を振って、自分の任務を遂行しようとする。常識はずれの彼が引き起こすドタバタに、上司も仲間も頭を抱え、腹を抱えながら、最後は万事うまくおさまる。タイムトリップができるなら、ソファに腰掛け、目を丸くしてページを繰っている私の隣りで、「他人の振りみて我が振りなおせ」と教えてあげたい。ポンポンと頭を叩いて「まっすぐなだけではだめなのかもよ」と抱き寄せたい。

 ともあれ、私が祖父のキャビネットのガラス扉から引っ張り出したのは、昭和四十四年に刊行された、本綴じ函入り布表紙の復刻版『のらくろ漫画全集』全十巻だったことはまちがいない。祖父にとっても宝物だったのだろう。一度にすべてを読めるはずもなく、それからもたびたび忍び込んでは読みすすめていった。不思議と『のらくろ総攻撃』ぐらいから、屈託のない明るさ、痛快さがなくなったように感じて読み飛ばすようになった。いま「のらくろ履歴書」を読み返してみると(「続のらくろ漫画全集』の『のらくろ喫茶店』巻末参照)、刊行は昭和十二年十二月。日中戦争が始まった年だから時局の影響もあったのだろう。印刷用紙統制令のため、作者の田河水泡氏が執筆禁止を受けるのは、その四年後のことである。

「きっと『のらくろ』は復活するよ。『のらくろ』はほんものだからな」

 打ちひしがれた田河氏を励ましつづけたのは、義兄の小林秀雄氏だけだったそうだ。ほんものはほんものを知る。それこそが時代が変わっても変わらない、かすかな希望である。

(2011.11.15)

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