35冊目
『豆腐屋の四季』
文芸文庫
『豆腐屋の四季』
著者:松下竜一
発行年月日:2009/10/09
講談社の本で「この一冊は?」と問われて、無条件にこの本が浮かびました。今年秋に定年退職をする予定の私ですが、この本は、私の三十七年の編集者人生の春夏秋冬を、あざやかに甦らせてくれる、とくべつの本なのです。
九州の海辺の小さな町・中津の豆腐屋青年が、日々働く実の暮らし、まだ稚ない少女を将来の妻に決めて待つひたむきな純愛、貧乏や不和でばらばらになる家族の絆を取り戻そうとする必死の努力……を、一字一字指を折って作ったかのような短歌と文で綴った青春の記録、それが『豆腐屋の四季』の原型です。1968年、松下青年はタイプ印刷・薄表紙のその自費出版本を何の伝手もない「講談社編集部」宛に送りました。今も昔も「持ち込み」原稿が日の目をみることは稀なことだと思いますが、『豆腐屋の四季』は手にした編集者を強く動かし、翌年世に出てベストセラーになりました。その年、私は大学進学のため大阪から上京しましたが、70年にかけての学生運動の高揚期、頭デッカチの観念語が飛び交う学生の視野にその本は入りませんでした。(ただ、帰省したときに見たTVドラマ「豆腐屋の四季」は、若き日の緒形拳のハングリーな眼差しとともに強く記憶に残っています)
時は移り、町の手づくりの豆腐屋は工場生産品に駆逐され、胸に宿痾を抱える松下さんも廃業、生涯の仕事になる反公害を中心にする市民運動家、ノンフィクションの書き手となります。私が講談社文庫の編集者として初めてお会いしたのは82年のことで、骨太な記録文学の傑作『砦に拠る』からです。反権力のコワモテの人を想像していた私は、まるで正反対のシャイで無口な松下さんのお人柄に、「この人は本物」を、直感しました。
児童図書に異動になり、子どもの本の理想と現実に編集者として行き暮れて(二人の子どもの子育てと会社員生活の両立にも疲れきって)いた90年には、『どろんこサブウ――谷津干潟を守る戦い』を、松下さんに書いてもらいました。東京湾に残った小さな干潟がごみ溜になっているのを見かねたタクシー運転手の森田三郎さんが、黙々とひとりでごみ拾いを続け、野鳥の来る干潟に甦らせた実話をもとにしています。
また、いつか中津にお邪魔した時、松下さんが耶馬渓の青の洞門に案内して下さったことがありました。菊池寛の小説でも有名な、鑿ひとつで難所の岩をくりぬいた僧侶の伝説が残る場所です。このお坊さん、森田三郎さん、そして三十一年間も「草の根通信」を出し続けた松下竜一さんの営為には、どこか共通するものがありそうです。いまは、もう流行らないフレーズかもしれませんが、「名もなく貧しく美しく」でしょうか。バブル経済に浮かれた世相とは逆行する本なのに、83年刊行の『豆腐屋の四季』(講談社文庫)は二十年以上のロングセラーになりました。そして一昨年、文芸文庫でこの本を再刊でき、中津の市民墓地で松下さんのお豆腐型(横長)の清々しいお墓に報告ができ、とても幸せでした。
(2011.02.15)