28冊目
講談社文庫『螢坂』
講談社文庫
『螢坂』
著者:北森鴻
発行年月日:2007/09/14
『1984年』で知られる文豪、G.オーウェルには「Moon under the water」という短編があります。冒頭は得意のルポのように見せて、「こんな行きつけのパブがあったらいいなぁ」と本人の願望が描かれます。酒飲みがよい止まり木を望むことは、洋の東西を問わないようですね。
東京の住宅街の路地に浮かぶ等身大のぽってりと白い提灯と焼き杉造りドア、この連作短編シリーズの舞台となる「香菜里屋」もまた、いきつけにしたくなるビアバーです。どんなお客でもすぐに店に馴染んでしまい、「今日は○○のよいものがはいりまして」と誘うマスター・工藤哲也に頷けば、不思議と「これが食べたかったんだ」と思う酒肴が出てきます。お客のわずかな表情や雰囲気、かすかな仕草から人の心のありようを読み取るマスターは料理人、というか天性の「接客」人ですが、実はもう一つ、隠れた能力を持っています。よい止まり木に惚れ込んだ常連客が持ち込む謎を、ほぼ推理だけで解いてしまうことです。
『花の下にて春死なむ』『桜宵』『蛍坂』、そして『香菜里屋を知っていますか』。4冊に納められた短編すべてが、ほぼこのビアバーを舞台に推理を展開します。アクションシーンや銃器、死体といった派手さはありません。日常で感じる謎、ごくありふれた人々がいだくかすかな違和感。ほんのわずかな糸口から、マスターの推理が鮮やかに奥行きの深い、豊かな物語を紡ぎ出してゆきます。待ち続ける人、リクエストされた料理の意味、幻の焼酎さがし、女友達の失踪、一刻者のバーテンダーの失敗……。結末はさまざまでありながら、人の想いと喜怒哀楽を優しく包んで、その後口はさわやかです。まるでマスターがつくる料理のように。
あえて出版社の社員らしいことをいうならば、短編小説はわりのよいものではありません。小説世界をつくる手間は短編も長編も変わりありませんが、作家に入るものはかなり少ないからです。労力の割にペイの少ないものですから、よい短編小説、読み応えのある短編小説はなかなかお目にかかれるものではありません。このシリーズは短編でありながら、きちんと深さを持ち、そして行外に語られなかった、あえて書かれなかった豊富な余韻を残します。一度であっさり読み流すにはもったいない、ぜひ読み返してそのすべてを味わい尽くしていただきたい作品揃いです。短編小説に注ぐ作家の愛情と想いが伝わってくることでしょう。
シリーズはやがて秘められていた工藤の想いと「香菜里屋」の由来をあかして、不思議な終幕を迎えます。いずれ劣らぬ作品集ですが、個人としてあえて3集目の『螢坂』を推します。余韻の深い一編、そしてあえて軽めに見せた一編などバランスが絶妙だからです。実はこの一冊には、私がまだ解ききれない謎が残っています。ある一編のラスト、マスターが女性常連客に伝えた二十数語の言葉。作家が明かさなかったこの言葉は、いったいどんなものだったのか。残念ながら、もう永久に作家がこの秘密を明かしてくれることはありませんが……。
(2011.01.14)