講談社100周年記念企画 この1冊!:文芸文庫『響きと怒り』

講談社100周年記念企画「この1冊!」

 

22冊目

文芸文庫『響きと怒り』

ウィリアム・フォークナー

須田美音
群像編集部 27歳 女

読まずに死ななくて良かった

書籍表紙

文芸文庫
『響きと怒り』
著者:ウィリアム・フォークナー 
訳者:高橋正雄
発行年月日:1997/07/10

 小学6年生の夏から今まで、読書ノートをつけている。読んだ本のあらすじや感想を記すだけの簡単なものだが、読み返すと当時の自分の感想が新鮮で面白い。2004年11月24日のノートの出だしには、こう書かれている。

「読み始めてすぐに、これはとんでもない本だということが分かった。」

 その頃、私は大学の3年生で、英米文学を専攻していた。ずっと日本の小説ばかり読んできたので、知らない世界に触れたくて文学部の英米文学に進んだのだった。「米文学史」という必修の授業では、アメリカ文学の名作といわれている本のリストが先生から配られ、テストまでにその中から数冊を選んで読んでおくように言われた。読んだことのない本ばかりだったので、私はリストにある本を全て読んでみることにした。

 テストの前日、リストの本は残り1冊になり、それがフォークナーの『響きと怒り』だった。文庫なのに1500円以上もするし分厚いので、同級生たちはみんな敬遠して読まないと言っていた。ところが、読み始めるともう明日のテストなどはどうでも良くなってしまった。読み終えて顔を上げると朝になっていた。

 第1章の語り手である三男ベンジャミンは知的障害のある青年で、触れた物や聞いた音をきっかけにして意識が過去に飛んでしまう。彼には過去や未来といった直線的な時間の感覚がないので、例えば冷たい物に触れると、かつて冷たいと感じたときの記憶と接続し、そのときの描写がいきなり始まるのである。言葉を持たないはずの人間の意識が、言葉で書かれていることに、まず度肝を抜かれた。

 第2章ではハーバード大学に通う長男クエンティンが、自殺するまでの一日が描かれる。死を目前にした人間の狂気を、小説で読んだのも初めての経験だった。ベンジャミンとは対照的に、クエンティンは高い知能を持っているはずなのだが、二人の意識の流れ方は驚くほど似ている。第3章は次男ジェイソン、第4章は神の視点で書かれており、徐々にコンプソン家の家族関係や過去の出来事が明らかになっていくつくりになっているのだ。

 兄弟の意識の旅を追っていくと、キャディーという妹(ベンジャミンにとっては姉)の存在が浮かび上がってくる。兄弟の彼女に対する純粋すぎる愛が、ときに憎しみをも孕み、キャディー自身は語る章を持たないのだが、鮮烈な印象を残す。『響きと怒り』は、アメリカ南部の名門コンプソン家の没落を描いた作品、とよく紹介されるのだが、私はお互いから永遠に逃れられない兄弟の物語であると感じた。

 こんなに途轍もない作品が1929年に書かれていたことに衝撃を受けた。私はそれから1年、来る日も来る日も『響きと怒り』の原文と翻訳を読み比べ、キャディーをテーマにして卒論を書いた。

 この本を読まずに死ななくて、本当に良かったと思う。

(2011.01.01)

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